takatomboのひとりごと(子育てパパの日記)

男性の子育てってなんだ?どこまでが子育て?毎日の気づきをブログに書きます。

建物見学

最近は建築から離れていた。

地元で地元の良さを発見しながら、自分の居場所を探していた(いや本気でね)

という事で地元では建築の話なんて通用しないので全くしないし、友達と毎日のように遊んでいると勉強なんてする時間がなくなってしまいう。

夏休みの前半が終わろうとしているけれど、後半はもう少し勉強したいと思っています。


という事で少し建築に近づくべき研究会の合宿に行ってきました。

まず最初に行ったのは古河総合公園

ここには内藤廣設計の管理棟

妹島和世西沢立衛設計の飲食施設がある。

ここの公園は盆地により温度が上昇しやすく、都心並みの熱さがあった。この公園をいかに涼しく快適なものにするか?という問題に二人の建築家が出した答えがそこにあったように思う。内藤廣設計の管理棟はこの公園の入り口でもありゲートのような役割を果たしている。公園内のランドスケープにあわせ屋根を低く抑えるとともに細い柱を沢山使い連続した空間を造り出しているとともに日本建築的なにおいもしてきた。空間として外部と内部を曖昧につなごうとしている事が公園への入り方や建物のディテールの中にも現れていていると感じた。

僕の勉強していく中で内藤廣の言葉で好きな(納得させられた)言葉が数多くあるが

アートで出来る事は建築でする必要がない

という事を彼は言っていた。建築にはさまざまな制限がある。それが法律だったり経済面だったり構造、技術だったりと。。そういう意味で建築はアートの世界からは少し離れた存在であるとも言える。

建築にしか出来ない事を建築する。内藤廣らしさがこの建物にあるように感じた。


公園の中を少し奥に行くとSANNAの二人が設計した飲食施設が見えてきた。

こうやって見るとミースのファンズワース邸(1950)を思い出す人もいるだろう。実際僕もこの作品をこの写真の角度から見た時そう思った。ただ近づいて見てみるとファンズワース邸のような建築の浮遊感は全くなかった。この建物の最大の魅力としての「軽さ」において大きくかけていることを感じた。それは使われ方にももちろんあると思う。しかしそれが仮になかったとしてもそこまで模型上のような軽さを感じる事が出来なかった。

表面も汚く、建築のあり方を勉強するにはよかったが、それ以上の事は得られなかったのが残念だった。


その次に富弘美術館に行った。
富弘美術館については二回目であったし、今回は作品を重点的に見てそのバックとして建築があるその姿はどう見えるのだろうか?という事を考えながら富弘美術館を回った。

新富弘美術館一回目の訪問

この建築は大好きな建築の一つであり、時間があれば何回でも行きたいと思う。
それを前提として、少しだけ疑問があり、富弘さんの目線、つまり車椅子や子どもの目線から見る事が出来る小窓、その向こう側に草花が生えているがその草花が窓の厚みによって見難い状態になっているように感じた。少しもったないように感じた。解決方法はもっとあるはずであるし、それが大きなコンセプトなのであるから、もっとしっかりと見せる必要があるように感じた。もう一つはその草花が生えている、中庭的存在である空間が小さすぎるように感じた。小さすぎるため光が入りにくくて、草花にとってよくない状況にあるのではあいかとそういうふうに感じた。

そんなとこかな。今回で富弘さんの美術館は3回目。富弘さんの絵や詩をよんで本当に毎回感動させらている。富弘さんのように自分も絵と詩で表現したいと思い、一時期作品を書いていた事をふと思い出した。いい時間を過ごせました。